成熟

他者に必要とされることを労働のモチベーションにできる人、まじですごくないですか?

「すごい」という言葉を使う時、そこには「おれにはできねえことをお前はできるのだな」という畏敬の念が含まれる。私は労働が嫌いだが、それでも労働に赴く動機を(そうしなければ飢えて死ぬといういかにも哀れな事実以外に)どこに見出しているかといえば、「この労働が自分に必要な物をこの世に顕現させる一助となる」という思いであり、考えてみれば今の今まで、他者の幸福に寄与したいという意志が動機の最上位にあったこと、一度もないなと気づき、なんとつまらない人間かと嘆いていたら正月が終わった。

私の父はフリーの講師だが、教え子には医学部を志望する高校生や予備校生が何人もいて、今の医療現場を見ていても医者になりたいのか、なぜだと聞けば「それでも人のためになりたいから」と答えたそうだ。

衝撃。

たった20年たらずの人生の中で、そこまで無私の、仏の境地、利他性の極致に至ることができるというのか、卑しい私には「メチャクチャ金を稼げるからです」と言われた方がよほど共感できる、すごい、すごすぎる……

私だって仮に仲のいい友達が大怪我をしたとして、治せるのは世界におまえしかいないと言われたら兎にも角にも死に物狂いで努力するだろう。彼らのすごさは、不特定多数の他者にまでその利他性を敷衍できるところにある。

そしてまたある時、何かで「他人に必要とされるのが自分の幸せだから、子どもがほしい」という意見を見て、うわあ〜〜〜これは、これはこれはこれは、あと7万回人生やってもそういう感じにはなれねえと痛感した。

まず私はマッチングアプリをやってる人をすごいと思っており、というのも、「人よりも先に椅子がある」状態が、もはや未知の領域であるからだ。任意の人間と親しくなった結果、恋愛関係に発展する、というのはわかる。任意の人間に一目惚れしたり一方的にあこがれを抱いたりして、その人との恋愛関係を欲する、というのもわかる。が、まず恋愛関係の相手を欲する段階があって、その相手に当てはまる人を調達する、これはすごい。まだそこに誰もいない段階から「誰かがここに座っていたらいいな」と思い描いて椅子を置き、座る人を募集するのと同じだ。その「誰かがここに座っていたらいいな」という思いの趣深さ。思考が外向きだ。自分にしか興味がなかったら、そんな発想には死んでも至らない。他人との関係性の中に人生の面白みを見出していこうとする姿勢がなければいけない。子どもが欲しいというのは輪をかけてすごい。人が来るより先に椅子を置くどころではなく、椅子に座る人を手ずから作り出そうというのだ。

(こういうことを言っていると「恋人がほしいのも子どもがほしいのも結局は本能にすぎないでしょ」という人がいるけれども、だから何だという話だ。はなから人間の自由意志など大したものではないというのに。)

何というか、自分が生きることを肯定する基盤を、他者との関係性の中に置ける人間、他者に求められることを自覚的に自己の幸福と結び付けられる人間、そして明確な意志をもって他者に求められる存在たろうとする人間、社会的動物として非常に成熟している。し、そもそも不特定多数の他人の役に立ちたいと志すのも、誰かしらと深い関係を結びたいと願うのも、強力な想像力がないとできないことである。今そこにいる具体的な人間ではないのだから。そこにこそ人間性の本質があるなあとつくづく思う。

私にそれらの傾向が希薄なのは、クールな一匹狼だからでもなんでもなく、ただただ未熟だからだ。人とのつながりを失うことの恐ろしさをまだ知らない赤ちゃんだからにすぎない。考えてたら怖くなってきた。寝よ