拘束

労働が嫌いだ。労働が嫌いというのは、仕事内容が嫌いとか、職場環境が嫌いとかいった次元の一つ上にある感情で、労働の本質を私は嫌っている。つまり拘束。労働する者は拘束の対価に金品を得る。まず時間的拘束。その時間の中で何をするかは多種多様だが、1秒たりとも費やすことなく天から雨の降るように金銭が湧いて出てくる状態を労働とは呼ばない。そういうのは不労所得という。私の一等好きな四字熟語、不労所得。そして精神的拘束。やりたいことを我慢する。泣きたい気持ちを我慢する。殴りたい気持ちを我慢する。我慢の連続。私の一番嫌いな二字熟語、我慢。

人生をかけた大きな目標として、できる限り拘束から逃れていきたい。大学時代ひそかに期待していた両親の隠し財産は存在しないことが宣言されてしまった。働かなければ飢えて死ぬ。ならば仕方ない、甘んじて労働を受け入れよう。しかし私は非常に向上心のある人間だから、能う限りの高みを目指す。私が労働をコントロールしたい。決して、私が労働にコントロールされるようなことがあってはならない。

まず目指すのは、「どこで労働するか」の拘束を逃れることだ。打ち合わせはリモートでおこない、好きな場所で働く。そんな生活が実現した暁には色々な場所に住もう。瀬戸内海を臨み、うまい蜜柑を食いながら働く。温泉地で毎朝一風呂浴びてから働く。どこか物価の安くワインのうまい国でへたくそな外国語を使いながら適当に暮らし、砂漠に沈む夕日を眺めながら働く。いいなー。