この世で一番うまい飲み物は冷たい水だと本気で思っている。高校の夏休み、太陽に灼かれながらばかでかい楽器を持って駆けずり回った後、深とした薄暗い廊下に設置されたウォータークーラーから飲む水の、極楽浄土で供される果実のごとき、冷たさ、濃い塩の塊のようになった全身の細胞が息を吹き返す感覚、生命体としてのまったく原初的な、純粋な喜びを、「浸透圧!浸透圧!」と叫びながら甘受したものだ。

また、風景としての水辺を愛してもおり、もし、自分の家を持てるなら必ず川、それも清流の至近に家を持つと決めており、もし大富豪になれるなら長野やその辺りの急峻な山の中の、美しい湖を丸ごと手に入れ、そのほとりに可愛い家を建て、日傘を立てたボートの上でブラッドベリを読むと決めている、実際には賃貸の更新料を払うにも動悸・息切れのする哀れな労働者であるからこれらはすべて妄想である、しかし妄想のない人間などバクテリアにも劣ると思わんかね。

そもそも水に触れること自体が好きで、球技、陸上、長距離走、体操、その他諸々の神には1ミリたりとも愛されなかったが、泳ぐということだけは、子供の頃から得意だった。実家は山の中だから、夏になると友達とそこらへんの川で泳いでは、ずぶ濡れのまま家へ帰ってきて、一緒にぬるい風呂に入り、扇風機の前で母親が用意してくれた半々に折って食べるアイスを皆で齧るのが当たり前だった。水着なんて着ずに普通のTシャツとハーフパンツで泳ぐのである。学校の方も、子供が勝手にあちこちの川で泳ぎ回るので、このあたりは流れが速いとか、水深が深いとかいう地図を配って、近づくなと教えるのだが、流れの速い場所は浮き輪で急流下りができ、水深の深い場所は飛び込みができるから、子供には魅力的で、かえって悪影響だったのではないか。

私は川の底に沈んで、水面を見ているのが好きだったから、通りがかった大人が見たら肝を冷やしたかもしれない。外界から遮断されて、ただ魚だけが周りにいる状態は心地よかった。水の中にいると、身体の重みから解放されて、何か優雅な生き物に生まれ変わったように感ぜられる。泳ぐというのは、人間に唯一許された、飛翔の真似事であると思うことがあって、陸上でなく水中にいる時こそ、本当に自分の動きたいように動き回れる気さえした。にも関わらず、定期的に水の上に出て呼吸をしないといけないのは本当に煩わしく、私が人間の体を嫌いになる一因となった。

子供の頃読んだ漫画に、飲むと水中で呼吸ができるようになるジュースが出てきて、真夏の暑い日にそれを飲み、冷たい湖の底で涼しく過ごすという話があって、羨ましくて羨ましくて仕方なかったのをよく覚えている。今でも羨ましい。夏は大嫌いだが、そんな過ごし方ができるなら天国の季節ではないか。多分そこから派生して、水没した建物や、ファンタジーの、水の中にある都市といった光景にはほとんど反射的に好感を持ってしまう。もし未来の人類が水の中で呼吸できるようになって、水中都市に暮らし始めたら、その時こそ私の生まれるべき時代といえる。水中都市に階段は要らない。何という自由、何という解放。

ちなみに鳥も水浴びが好きである。私が台所で食器を洗っていると必ずバルルルルと羽音が聞こえてベンと肩に鳥が貼り付く。洗剤の泡を全部流してから蛇口のところへ手を差し伸べると鳥が勝手に水を浴び始める。サザナミインコの水浴びは非常に他力本願でセキセイ等のように自分でばちゃばちゃやったりしない。ただパカーと翼を開いて流れてくる水を受け止めるだけだ。無防備なことに手の上でコロンと転がってしまう時さえある。これは推測だが乾燥した地域に住む鳥は池で水浴びをするから自分で潜ったりばちゃばちゃやる必要があるが、サザナミインコは森に住むので雨が降るのを待つだけでいいのだろう。きっと野生下では雨が降りだすと一斉に木の枝にぶら下がってパカーと翼を開いているのだ。