休日

良く晴れた休日の午前中、洗濯物をすっかり干してしまった後、ベッドに寝転んで鳥を腹に乗せている時間に、私は心底満ち足りた気分になり、至上の幸福を感じる。これが本当だ、このために生きているのだという感じがする。冗談や誇張ではなく、死ぬ時はその状態で死にたい。

物心ついた頃から休日を愛していた。正確には何もしなくていい休日を愛していた。小学生のときは毎週土曜日にスイミングスクールに通っていたが、ある時母が日曜日に学校でやっている競技ドッジボールのサークルに参加することを提案してきた。私は絶対にいやだった、一週間のうちに何もしなくていい日が一日も存在しなくなってしまうのだから。そう訴えても母は「子供がそんなことを言って」というような聞き流し方をして、結局私はドッジボールチームへの加入を余儀なくされ、毎週日曜日の午前中をやりたくもないボールのぶつけ合いをして過ごした。

私はスポーツが下手な子供だった。水泳だけは好きだったが、陸に上がるとてんで不出来で、私以外の家族は皆運動神経がよいのに、突然変異が起きたとしか思われなかった。家族には散々、お前も本当は出来るはずだの、本気でやってないだけだのと勝手なことを言われ(いい気なものだ、数学について同じことを言われたら怒るくせに)、言われたところで下手なものは下手であり、嫌いなものは嫌いであり、嫌いというのは向上心が芽生えないということであり、向上心のない練習ほど無駄なものはない。

子供だろうが何だろうが、嫌いなことを我慢してやっている時間は、本当は存在してはいけない。我慢は、人間の義務でも、美徳でもなく、生きる上での副産物にすぎない。たった数十年で死ぬ生き物が、わざわざ喜びのないことに労力を使って何になる。無論、生きるために嫌なことに耐えなければならない状況はごく日常的に存在するし、それをやり過ごしていくのも人生だが、それはしなくて済むならしない方がいい我慢である事実を忘れてはならず、我慢それ自体を美しい行いのように言うのは欺瞞だ。我慢と努力は違う。

しかし独立した大人になった今、私は自由だ。休日には何もしない。より正確には、やりたいことしかしない。

朝、好きな時間に起きる。7時でも10時でも14時でもいいが、最近は9時頃に起きると一番調子がいい。シャワーを浴び、洗濯をする。台所を片付け、部屋に掃除機をかけ、洗濯物を干し、フィットボクシングで汗を流し、またシャワーを浴び、適当に野菜と肉で何かを作り、食べ、食べたら横になり、窓を開けて風を入れ、買っておいた新しい本を読み、そのまま昼寝をし、起きたらゲームをし、買い物に行く気になれば買い物に行き、また適当に料理して、食べ、本を読み、シャワーを浴び、アニメか映画を見て、そう遅くならないうちに寝る。もちろん、このすべてをやらなくてもいい。これが重要だ。全部、やりたくなければやらなくてもいいことなのだ(注1)。掃除機なんぞ、数ヶ月かけなくたって死にはしない。一週間一度も食事をとらなければ死ぬだろうが、一日くらいなら問題ない。最高!

「やりたいかどうかに関わらずやらなければいけないこと」に追われる日々の中で、やりたいことだけをやる、これがいかに貴重な、贅沢な、貴族的な行いか。出かける、出かけないは問題ではない。人に会う、会わないも本質ではない。

六畳一間だろうと南国のプライベートビーチだろうと、独りだろうと100人の美姫に囲まれていようと、やりたくないことをやっていない人間は幸福である。

 

 

注1: 鳥の世話は休日に関わらずやるが、鳥はかわいいのでなんの問題にもならない。