子を生むことについて

子がほしい人は、なんでほしいんだろうか。かわいいから?いたら楽しそうだから?いないと寂しそうだから?老後を支えてくれそうだから?親に孫の顔を見せるため?少子高齢化に歯止めをかけるため?遺伝子の保存のため?それとももっと深遠な何かか?

私の親も含め、これだけたくさんの人が実際に子を生んでいるのだから、そこにはたしかに喜びがあるのだろうし、その喜びを否定する意図はまったくないし、子がほしい人は是非どんどん生めばいいし、理由なんてあってもなくてもどうでもいいし、全然おかしいことだと思わない。ここに書くことは徹頭徹尾私が私の心を観察するために書くのであって、他者に何かを要求したり、他者を侮蔑したりするために書くことはひとつもない。

 

私は現状子がほしくない。理由、大まかに四つ。

一、妊娠出産が怖すぎ。

二、自分が望むような子じゃなかったらどうするんだろうと思ってしまう。

三、自分の人生の充実のために、別の人間の人生を勝手に始めていいのかと思ってしまう。

四、そもそも子どもをそんなにかわいいと思わない。

 

一。女なので実子を得るには妊娠出産を避けては通れない。妊娠は辛そうだし出産は痛そうだし最悪死ぬとか怖すぎる。あと抑うつ状態の苦しみを二度と味わいたくないのでホルモンバランスの激変もかなり怖い。

二。子をほしいと思う人が想像する、自分の子が歩む人生とは、どんなものだろう。親の愛情をいっぱいに受けてすくすくと成長する。学校に通い、友だちと仲良く遊ぶ。やがて成人して仕事を得、大変な思いもつらい苦労もたくさんするが、なんとか社会でうまくやっていき、人生のパートナーを見つける。いずれは孫という老後の楽しみまで用意してくれるかもしれない。

しかし、その夢想が実現される保障はひとつもない。子は、自分の思い描いたように成長しないかもしれないし、思い描いたように自立しないかもしれない。社会の許容する範囲内ならそれもいいかもしれないが、子が取り返しのつかない罪を犯す可能性だって完全に否定することはできない。思ってたんと違ったからといって、腹の中に押し戻すわけにもいかんのだし、子が生きている限りは生かし続ける責任がある。子に生命を与えるかどうかは選べても、子の生命を奪うかどうかは選べない(少なくとも合法的には)。それでもいいと言える自信がない。

三。生きることは苦しみである。肉体を持ったその瞬間から、私たちは肉体を食わせ続けなければならず、そのためにあらゆる苦難が待ち受けている。裕福な家で愛情たっぷりに飼われている柴犬に生まれれば、苦しみはかなり軽減されようものだが、私の生む子はどうあがいても柴犬には生まれまい。一介のクソザコ労働者にすぎない私が、莫大な財産で子を一生安楽に過ごさせてやる未来など望むべくもない。ならばいずれ子を社会という地獄に放り出す日が必ず来る。万一社会から飛び出そうものなら、待ち受けているのは自然というさらにひどい地獄である。

こんな残酷な仕打ちがあるか?たとえ今までに生まれたほとんどすべての生き物が何の了承もなくこの世に生み出され、にも関わらず自力で生きていくことを強制されているとしても、これから生まれる生き物に同じことをしていい理由になるだろうか。そんな無慈悲な行いを、自分の人生の充実という他人からすればめちゃくちゃどうでもいい事柄のために実行していいのだろうか。

四。子ども、特別かわいいと思わない。そういう人、表立って言わないだけで割といると思うんだけど、どうか。乳幼児がことさら嫌いというわけではなく、大人と同じようにしか感じない。「子ども」という何か愛くるしい種類の生き物として見えるのではなく、ただ「人間」に見えるという話で、そしてわざわざ新しく作りたいと思うほど人間はかわいくない。鳥の方がずっとかわいい。これは純粋に私の美的感覚の問題だから自分にもどうしようもない。

ただし、子どもがかわいくないからといって、子どもがどんな目に遭っても無関心でいられるとか、子どもの福祉がどうでもいいとかいうことにはならない。あらゆる面で弱い立場にある子どもを守り助けるのは同胞のつとめといってよく、かわいいとかかわいくないとかいう感情とは別の次元の論理において、積極的であるべきだろう(かわいいから優しくする、かわいいから守るべきという方が、よっぽど冷酷な話である)。だからもし自分に相応の経済力があるなら、実子よりもむしろ養子を育てたい。自分の配偶子は受精卵になれなかったからといって悲しんだり苦しんだりしないが、既に生まれてしまった子には悲しみも苦しみも存在しうるから、それを軽減する方が先ではないかと思う。

 

さて、このような考えを持っていてもなお、私が将来的に子を生む可能性を完全には否定しきれない(配偶者が見つかるかどうかは別として)。私の親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親もその親も、その親も、その親も、全員が子を成してきたのだ。仮に子を成すも成さないも思いのままという状況に置かれた場合、数十億年間次世代を遺す術を磨き続けてきた遺伝子の前に、私の意志などどれほどのものか?いや、そもそも私の意志が欲求を追認する、欲求にそれらしい理屈を与える機構でないとなぜ言える?人類が気候変動と食糧難にあえぎ、社会が激動にさらされ、消費税率が5億%になったとしても、ひとたびそのスイッチが入ったら、私の意志はすべての認識を改竄して、途方もない楽観論を捏ね上げ、子がこの世で味わうことになる苦しみなど歯牙にも掛けず、何だかんだ言ってもこの世は楽しい場所だという気分になり、自分の遺伝子を受け継ぐ子どもこそ世界で一番尊いと信じて、子を生むことを是とするのではないか?人間とは、生物とはそういうものであり、そういうものだからこそ、今まで存続してこれたのでは?そのような怖れとも諦めともつかない気持ちがなんとなく常にあるので、私は反出生主義者になれない。

やっぱインコに生まれればよかったな