最高

私のお優しい母上は毎年、大寒、つまり私の誕生日が近づくと5000円分の図書カードを下賜してくださります。誕生日プレゼントがおもちゃや洋服から図書カードに切り替わったタイミングは、さて中学生の頃か高校生の頃か覚えておりませんが、この5000円分の図書カードをどう使おうかと、それを考えるのが毎年1月の楽しみであり、今年もまた慈悲深くも母上がお恵みあそばされた、モネの絵画をあしらった図書カードを財布に仕舞い、池袋のジュンク堂に赴いたのでありました。

図書カードというのは、人類が発明したもののなかでも10番目くらいに素晴らしいものではないかと思いまして、何故なら図書カードを与えられたが最後、人は本を買わざるをえないからです。現金やamazonギフト券を与えられた場合、その使い途はほとんど無限に存在し、いつ使おうかどう使おうかと悩んでいるうちに、いつの間にやら明日の米や明後日のパンに変わってしまうことも無きにしもあらず。ところが図書カードの使い途は本や文房具に限定され、決して富裕とはいえない私の生活の中に「本を買うためだけに存在する資産」が生まれるのですから、これはたいへん贅沢なことです。金券ショップに持っていって現金に換えることも可能ですが、それはただただ物理的に可能というだけであります。

池袋のジュンク堂はおそろしく広い本屋で、本屋どころか経済活動のきざはしさえ見えない群馬のドドドド田舎で育った私にとっては蓬莱に等しい空間です。車で20分かかる駅から、電車で50分かかる高崎のビブレの中の、2フロアにまたがったジュンク堂だけでもかつて高校生の私にはかりしれない衝撃と興奮をもたらしたというのに、池袋のジュンク堂ときたらエスカレーターを上っても上っても無限に思えるまでに全部本屋なのですから、訪れる度に昂揚を禁じえません。無人島に一つ持っていけるなら絶対に池袋のジュンク堂を選びます。

さて財布の中で今か今かと精算の時を待っているのは5000円分の図書カード、私が今日絶対に買おうと決めていたのはテッド・チャンの『息吹』だけでした。これは2000円くらいなので残り3000円は使える計算になります。まず人文の階を巡って『息吹』を見つけました。すると隣にこれも2000円くらい、ギョルゲ・ササルマンの『方形の円』が並んでいました。ルーマニアの作家の方だそうで説明を読むといかにも面白そうなので買うことにしました。残り1000円の行き先を求めてうろうろしていると美しい女性と椿の花の表紙も鮮やかな郝景芳の『1984年に生まれて』がありました。同氏の『折りたたみ北京』が面白かったのでこれも手に取りました。

それから毎回必ず行くようにしている理工の階へ上りました。生物学(鳥類)のコーナーを見るのが毎回の楽しみで、今日はそこに川上和人『鳥の骨格標本図鑑』を見つけて内心小躍りしました。タイトルそのまま鳥の骨格標本だけをたくさん載せている本のようです。鳥はその身体の構成要素すべてが美しいのでこれも買うことにしました。これは3000円くらいです。同じ鳥類のコーナーにアイリーン・M・ペパーバーグ『アレックスと私』が並んでいました。ヨウムのイラストにアレックスときたらあのアレックスに決まっています。鳥は地球が生みだした奇跡なのでこれも買うことにしました。これは860円でした。ほとんどただといっていい値段です。

持ちきれなくなったのでカゴに本を入れて、脳科学の方もうろうろしてみました。何冊か手に取りましたがもう一つピンとこなかったので一番上の芸術の階に進みました。今は映像演出の勉強をしたいので映画のコーナーへ行って、パラパラと立ち読みしながら初心者にわかりやすそうな本を2冊ほどカゴへ入れました。村崎哲也『伝わる映像』と藍河兼一『動画でわかるカット割りの教科書』です。芸術の階には写真集がたくさん売っていて前から気になっていた九龍城の写真集もあり、惹かれましたが何となく今じゃないという気がしてやめました。さらに奥の方へ行くとペーパーバックの洋書の棚があります。英語はさほど得意ではありませんが以前どうしてもレイ・ブラッドベリの文章を原語で読みたかった時にここで購入したのを思い出して、何となく覗いていると『息吹』の原書がありました。これは日本語版を読んでから買うのがいいかなと思い、

ここではたとカゴの重みに気付きました。合計いくらになったのかはわからないが多分5000円よりは多いなと思いました。仕方ないので『1984年に生まれて』は文庫化を待つことにして、棚へ戻して、レジへ向かいました。

 

12703円

 

給料が入ったばかりなので良いということにしました。まだ帰る気分にならなかったのでいつも本を買った時や勉強したい時に行くジュンク堂近くの喫茶店へ入ってコーヒーを頼み、早速『息吹』を読み始めました。1本目の「商人と錬金術師の門」を読み終え、期待通りの面白さに深く満足しながら2本目の表題作に進み、あまりに面白いので途中何度も休憩を挟み、最後には感動でうるうるとしてしまいました。ここ数ヶ月なかったくらいの最高の気分でした。これ以上幸せなことがこの世にあるだろうかと思いました。人に貰った金で本を買い、その本が値段にまったく見合わないほど面白く、喫茶店でゆっくり読みながら土曜の午後を過ごす、これが幸福でなくて何が幸福なのかと噛みしめながら家へ帰りました。

お母さんありがとう