ンーン

サザナミインコの鳴き声を人間の音声言語に対応した文字で表すのは非常に困難だがあえて書くならピーではなくウィーとかフィーである。破裂音という感じがしないのである。サザナミインコの鳴き声は基本的に静かであり、セキセイインコのように粒の立った声ではなくサザナミインコの見た目と同様になにか名状しがたいぬるりとした印象をもつ。

人間がベッドに寝ていると鳥がス…ス…とカーテンの裏側を伝って降りてくる音がする。そして鳥がカーテンからぬーと顔を出し、またぬーと引っ込める。ス…ス…と降りてきてさっきよりも近くでぬーと顔を出す。いつの間にか顔の真横まで降りてきていて、なんの前触れもなく耳元で

「ウィーユ」

と鳴く。人間は驚く。これを毎日のようにやっている。

またある時は部屋に吊るした紐からぶら下がって大きな目で人間をじっと見ている。いや、果たして人間を見ているのか、他の何かを見ているのかわからない。何も見ていないのかもしれない。そしておもむろに

「フィーイ」

と鳴く。それだけである。何を思って鳴いたのかそもそも何を思ってぶら下がっているのか、理由があるのかないのか、まったくわからない。

インコはその嘴の形状が人間の微笑みの表情を想起させるのでなんとなくいつもうっすら楽しそうに見える。うっすら楽しそうな鳥が無言でぶら下がっておもむろに鳴いたり鳴かなかったりする様は人間に「これは自分の理解できる範囲を超えている」という感情を起こさせる。はじめ人間は混乱し、なにかわかりやすい反応を引き出そうと鳥に触れたり話しかけたりする。しかし休日など鳥1羽と人間1人だけで何十時間も過ごしていると、次第にこのサザナミ的世界観に持っていかれてしまう。目の前にいる生物が何を考えてるのかさっぱりわからんという状態に慣れてくる。

意味のわからなさに慣れることはサザナミインコとの暮らしにおいて、否、ほかのすべての動物との暮らしにおいても、重要である。人間はなにかというと動物に人間っぽさを期待し、動物の行動にストーリー性を見出し、アテレコしたがる。それは人間の脳がもつ重要な性質であろうが、あまりやり過ぎるのも考えものである。鳥はあくまで鳥であり、犬はあくまで犬であり、ハムちゃんはあくまでハムちゃんであり、ヒトではない。鳥にも、犬にも、ハムちゃんにも、独自のルールがあり、そのルールを無視してヒトのルールを押し付けるなら、動物を飼う行いは自己愛の慰撫にしかならない。そう思いますよね?

サザナミインコ「ウィーホー」

子を生むことについて

子がほしい人は、なんでほしいんだろうか。かわいいから?いたら楽しそうだから?いないと寂しそうだから?老後を支えてくれそうだから?親に孫の顔を見せるため?少子高齢化に歯止めをかけるため?遺伝子の保存のため?それとももっと深遠な何かか?

私の親も含め、これだけたくさんの人が実際に子を生んでいるのだから、そこにはたしかに喜びがあるのだろうし、その喜びを否定する意図はまったくないし、子がほしい人は是非どんどん生めばいいし、理由なんてあってもなくてもどうでもいいし、全然おかしいことだと思わない。ここに書くことは徹頭徹尾私が私の心を観察するために書くのであって、他者に何かを要求したり、他者を侮蔑したりするために書くことはひとつもない。

 

私は現状子がほしくない。理由、大まかに四つ。

一、妊娠出産が怖すぎ。

二、自分が望むような子じゃなかったらどうするんだろうと思ってしまう。

三、自分の人生の充実のために、別の人間の人生を勝手に始めていいのかと思ってしまう。

四、そもそも子どもをそんなにかわいいと思わない。

 

一。女なので実子を得るには妊娠出産を避けては通れない。妊娠は辛そうだし出産は痛そうだし最悪死ぬとか怖すぎる。あと抑うつ状態の苦しみを二度と味わいたくないのでホルモンバランスの激変もかなり怖い。

二。子をほしいと思う人が想像する、自分の子が歩む人生とは、どんなものだろう。親の愛情をいっぱいに受けてすくすくと成長する。学校に通い、友だちと仲良く遊ぶ。やがて成人して仕事を得、大変な思いもつらい苦労もたくさんするが、なんとか社会でうまくやっていき、人生のパートナーを見つける。いずれは孫という老後の楽しみまで用意してくれるかもしれない。

しかし、その夢想が実現される保障はひとつもない。子は、自分の思い描いたように成長しないかもしれないし、思い描いたように自立しないかもしれない。社会の許容する範囲内ならそれもいいかもしれないが、子が取り返しのつかない罪を犯す可能性だって完全に否定することはできない。思ってたんと違ったからといって、腹の中に押し戻すわけにもいかんのだし、子が生きている限りは生かし続ける責任がある。子に生命を与えるかどうかは選べても、子の生命を奪うかどうかは選べない(少なくとも合法的には)。それでもいいと言える自信がない。

三。生きることは苦しみである。肉体を持ったその瞬間から、私たちは肉体を食わせ続けなければならず、そのためにあらゆる苦難が待ち受けている。裕福な家で愛情たっぷりに飼われている柴犬に生まれれば、苦しみはかなり軽減されようものだが、私の生む子はどうあがいても柴犬には生まれまい。一介のクソザコ労働者にすぎない私が、莫大な財産で子を一生安楽に過ごさせてやる未来など望むべくもない。ならばいずれ子を社会という地獄に放り出す日が必ず来る。万一社会から飛び出そうものなら、待ち受けているのは自然というさらにひどい地獄である。

こんな残酷な仕打ちがあるか?たとえ今までに生まれたほとんどすべての生き物が何の了承もなくこの世に生み出され、にも関わらず自力で生きていくことを強制されているとしても、これから生まれる生き物に同じことをしていい理由になるだろうか。そんな無慈悲な行いを、自分の人生の充実という他人からすればめちゃくちゃどうでもいい事柄のために実行していいのだろうか。

四。子ども、特別かわいいと思わない。そういう人、表立って言わないだけで割といると思うんだけど、どうか。乳幼児がことさら嫌いというわけではなく、大人と同じようにしか感じない。「子ども」という何か愛くるしい種類の生き物として見えるのではなく、ただ「人間」に見えるという話で、そしてわざわざ新しく作りたいと思うほど人間はかわいくない。鳥の方がずっとかわいい。これは純粋に私の美的感覚の問題だから自分にもどうしようもない。

ただし、子どもがかわいくないからといって、子どもがどんな目に遭っても無関心でいられるとか、子どもの福祉がどうでもいいとかいうことにはならない。あらゆる面で弱い立場にある子どもを守り助けるのは同胞のつとめといってよく、かわいいとかかわいくないとかいう感情とは別の次元の論理において、積極的であるべきだろう(かわいいから優しくする、かわいいから守るべきという方が、よっぽど冷酷な話である)。だからもし自分に相応の経済力があるなら、実子よりもむしろ養子を育てたい。自分の配偶子は受精卵になれなかったからといって悲しんだり苦しんだりしないが、既に生まれてしまった子には悲しみも苦しみも存在しうるから、それを軽減する方が先ではないかと思う。

 

さて、このような考えを持っていてもなお、私が将来的に子を生む可能性を完全には否定しきれない(配偶者が見つかるかどうかは別として)。私の親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親も、その親もその親も、その親も、その親も、全員が子を成してきたのだ。仮に子を成すも成さないも思いのままという状況に置かれた場合、数十億年間次世代を遺す術を磨き続けてきた遺伝子の前に、私の意志などどれほどのものか?いや、そもそも私の意志が欲求を追認する、欲求にそれらしい理屈を与える機構でないとなぜ言える?人類が気候変動と食糧難にあえぎ、社会が激動にさらされ、消費税率が5億%になったとしても、ひとたびそのスイッチが入ったら、私の意志はすべての認識を改竄して、途方もない楽観論を捏ね上げ、子がこの世で味わうことになる苦しみなど歯牙にも掛けず、何だかんだ言ってもこの世は楽しい場所だという気分になり、自分の遺伝子を受け継ぐ子どもこそ世界で一番尊いと信じて、子を生むことを是とするのではないか?人間とは、生物とはそういうものであり、そういうものだからこそ、今まで存続してこれたのでは?そのような怖れとも諦めともつかない気持ちがなんとなく常にあるので、私は反出生主義者になれない。

やっぱインコに生まれればよかったな

疾風迅雷・ピザ・バイク

土砂降りの雨が大地を殴り、烈しい雷が暗い空を粉砕し、人は癇癪を起こした子供をうんざりと見るような顔で足早に帰路を急ぎ、また実際に大気の鳴動すること幼い雷神が天上で泣き喚いているかのごとき凄まじさであった。

なす術もなく大雨と雷とに蹂躙されるばかりの住宅街の暗い細い道路を、私は明らかに雨量に対して心許ないサイズの折り畳み傘に縋って歩いていた。そこに新たな雷の音が轟いたかと思うと、アッと思う間もなく近付いて、次の瞬間、私の横を疾風の勢いで追い抜いて行った。雷鳴かと思われた轟音は雷鳴ではなかった、その姿は稲妻によく似ていたが稲妻ではなかった、それは、それこそは、

ドミノ・ピザのバイク

 

荒れ狂う風を切り裂き、叩き付ける雨粒をものともせず、漆黒の闇にテール・ランプをひらめかせ、なんぴとにも掻き消すことのできない力強いエンジン音を響かせて、猛スピードで駆け抜けて行ったのは、二つ並んだ四角形のロゴも鮮やかな、ドミノ・ピザのバイク。

そのバイクに乗る男(たぶん)の背中に思わず目を奪われた、物言わぬその背中が、かような悪天候にあって呑気に「ピザでも頼むかァ」と間抜け面でスマホをいじくり、彼をしてクワトロ・ミート・マックスだか、ギガ・ミートだかなんだかいったような高カロリー物体を運搬せしめているのであろう何者かへの、静かでありながらこの上なく苛烈な、苛烈でありながらこの上なく寡黙な、そして純粋な怒りを、体現していればこそ。

彼が雷鳴よりも疾く駆け抜けていった後の道路に一瞬美しい雨水の轍が残り、街灯を反射して煌めいた。ああ、気高いドミノ・ピザの人よ、どうかあなたになんか良いことありますように。

地球大進化

地球大進化』は、2004年にやっていたNHKスペシャルの番組で、書籍化もしている。当時私は小学生で、この番組と書籍が大好きだった。内容を完全に理解していたとは到底言い難いが、何度も繰り返し見て、読んでいた。地球が極地から赤道に向かってどんどん真っ白に凍り付いていく全球凍結のイメージ映像、枯れた大地の、わずかに残った水溜りに集まって折り重なるように死んだ動物たちの化石。超温暖化、寒冷化、乾燥化、酸素濃度の低下、容赦のない破壊と滅亡と再生が幾度も飽かず繰り返されてきた46億年の歴史に私は高揚した、その高揚感の正体が果たしてなんなのかはわからない。ただ、今ここにある人間の社会は本当に「ついさっき」できたばかりの、長い長い宇宙と地球の歴史の中で生まれて消える泡沫の一つにすぎないと知った時、何かすごく嬉しかったのだ。

地球大進化の書籍版には、地球の過去だけでなく、未来についても記述されている。だいたいこのくらいで生命圏が崩壊し、このくらいで水が全部蒸発し、このくらいで地球が太陽に呑み込まれ、その太陽もじきに燃え尽きる、というようなことがつらつらと書かれている。もしかするとこの記述ほど、私に影響を与えたものは無いかもしれない。連綿と自己複製を続け、繁栄と絶滅を繰り返し、激変する地球環境に翻弄され、それでもぎりぎり一握りの種が切り抜けて作り上げてきた生命の歴史の、その結末がこれ。これこそ解放宣言ではないか。そんな結末が用意されているなら、たかが人間の一個体がどう生きてどう死のうと、何も、何も関係ないじゃないか。私の可愛がっている鳥が死に、私も死に、最後の生物がそっと地上から消え、地球は霧消し、宇宙は膨張しきって停止する、それが10年後でも1億年後でも1兆年後でも、すべては滅ぶ、すべては消える、その運命だけは変わらない。努力しだいで多少、最期を先延ばしにすることは可能かもしれないが、遅かれ早かれ終わりはやってくる、その時に誰かが「よく長い間生き残りましたね」と褒めてくれるわけでもない。ならば、人は生きて子孫を残さなければいけない、国が、社会が、ホモ・サピエンスが未来永劫存在し続けるべく努力しなければいけない、そんな風に意気込んでみせたところで、まったく、何の意味も無かったのだ。最高すぎて笑えてくる。なんという徒労、なんという救い。絶対に何かを「しなければならない」なんてことは、この世に一つもない。

自由だ。

 

この世で一番うまい飲み物は冷たい水だと本気で思っている。高校の夏休み、太陽に灼かれながらばかでかい楽器を持って駆けずり回った後、深とした薄暗い廊下に設置されたウォータークーラーから飲む水の、極楽浄土で供される果実のごとき、冷たさ、濃い塩の塊のようになった全身の細胞が息を吹き返す感覚、生命体としてのまったく原初的な、純粋な喜びを、「浸透圧!浸透圧!」と叫びながら甘受したものだ。

また、風景としての水辺を愛してもおり、もし、自分の家を持てるなら必ず川、それも清流の至近に家を持つと決めており、もし大富豪になれるなら長野やその辺りの急峻な山の中の、美しい湖を丸ごと手に入れ、そのほとりに可愛い家を建て、日傘を立てたボートの上でブラッドベリを読むと決めている、実際には賃貸の更新料を払うにも動悸・息切れのする哀れな労働者であるからこれらはすべて妄想である、しかし妄想のない人間などバクテリアにも劣ると思わんかね。

そもそも水に触れること自体が好きで、球技、陸上、長距離走、体操、その他諸々の神には1ミリたりとも愛されなかったが、泳ぐということだけは、子供の頃から得意だった。実家は山の中だから、夏になると友達とそこらへんの川で泳いでは、ずぶ濡れのまま家へ帰ってきて、一緒にぬるい風呂に入り、扇風機の前で母親が用意してくれた半々に折って食べるアイスを皆で齧るのが当たり前だった。水着なんて着ずに普通のTシャツとハーフパンツで泳ぐのである。学校の方も、子供が勝手にあちこちの川で泳ぎ回るので、このあたりは流れが速いとか、水深が深いとかいう地図を配って、近づくなと教えるのだが、流れの速い場所は浮き輪で急流下りができ、水深の深い場所は飛び込みができるから、子供には魅力的で、かえって悪影響だったのではないか。

私は川の底に沈んで、水面を見ているのが好きだったから、通りがかった大人が見たら肝を冷やしたかもしれない。外界から遮断されて、ただ魚だけが周りにいる状態は心地よかった。水の中にいると、身体の重みから解放されて、何か優雅な生き物に生まれ変わったように感ぜられる。泳ぐというのは、人間に唯一許された、飛翔の真似事であると思うことがあって、陸上でなく水中にいる時こそ、本当に自分の動きたいように動き回れる気さえした。にも関わらず、定期的に水の上に出て呼吸をしないといけないのは本当に煩わしく、私が人間の体を嫌いになる一因となった。

子供の頃読んだ漫画に、飲むと水中で呼吸ができるようになるジュースが出てきて、真夏の暑い日にそれを飲み、冷たい湖の底で涼しく過ごすという話があって、羨ましくて羨ましくて仕方なかったのをよく覚えている。今でも羨ましい。夏は大嫌いだが、そんな過ごし方ができるなら天国の季節ではないか。多分そこから派生して、水没した建物や、ファンタジーの、水の中にある都市といった光景にはほとんど反射的に好感を持ってしまう。もし未来の人類が水の中で呼吸できるようになって、水中都市に暮らし始めたら、その時こそ私の生まれるべき時代といえる。水中都市に階段は要らない。何という自由、何という解放。

ちなみに鳥も水浴びが好きである。私が台所で食器を洗っていると必ずバルルルルと羽音が聞こえてベンと肩に鳥が貼り付く。洗剤の泡を全部流してから蛇口のところへ手を差し伸べると鳥が勝手に水を浴び始める。サザナミインコの水浴びは非常に他力本願でセキセイ等のように自分でばちゃばちゃやったりしない。ただパカーと翼を開いて流れてくる水を受け止めるだけだ。無防備なことに手の上でコロンと転がってしまう時さえある。これは推測だが乾燥した地域に住む鳥は池で水浴びをするから自分で潜ったりばちゃばちゃやる必要があるが、サザナミインコは森に住むので雨が降るのを待つだけでいいのだろう。きっと野生下では雨が降りだすと一斉に木の枝にぶら下がってパカーと翼を開いているのだ。

飲酒

絶望的に酒が弱い。これは遺伝だからどうすることもできないが、酒の味(と、わかったような書きぶりをしても、実際にはリキュールなど甘い酒か、ごく軽い日本酒しか飲めない)は好きなのに、度数5%でもグラスに2杯ものめば朦朧となるから、気軽に飲むことができず、極めて不本意である。

近所にSPY(タイの酒、ワインベースでジュースのように甘い)を出すタイ料理屋ができて、料理もタイの家庭の味という雰囲気で大変美味である。本当は一刻も早くその店でSPYを飲みまくりたいが、私は酔って居酒屋の、知らないおじさん達の席で勝手に寝ようとしたことさえあり、酔った私より実家の犬の方がよっぽど賢いくらいなので未だに躊躇している。堪えきれなくなると海外の酒を多数、扱っている酒屋にネット注文をして家で飲む。SPYはクラシックというのが一番美味しく色も華やかなコーラルピンクで、よく冷やしたこれに冷凍イチゴなぞ浮かべると六畳間に貴婦人の飲み物が爆誕する。

とはいえ最近はさほど頻繁に酒を飲まなくなってしまった。ごくたまに、何の脈絡があるわけでもないが今日は酒が飲みたいぞ!!という日があって、KALDIなどで買った安いサングリアを、緑色のガラスで出来た厚みのあるワイングラスに氷をどっさり入れた上に注いで、炭酸水でこれでもかと薄めて飲む。本当は薄めず飲みたいのだが薄めないとあまりにもすぐに酔いが回って楽しむ暇もないのである。

一時はモヒートもよく飲んだ。これは確か大学の時ホーガンの『内なる宇宙』に出てくる異星の酒があんまり美味しそうで、想像したのに近い色味の酒を買ったのが最初である。ミントとライムの味がついて売っている奴を氷(家で作ったのじゃない大きくて綺麗な氷)を入れたグラスに垂らしてちびちび舐めるようにして飲む。しかしこれもすぐに酔うので、大抵は冷たい水で薄めて飲んでいた。そういえばロシアに行った時ノンアルコールモヒートがよく売っていて、ケンタッキーなどのチェーンのメニューにもあるので驚いた。ミントシロップとライムジュースを炭酸水で割って、凝ったところだと本当のモヒートのように生のミントも潰して入れたものだがこれはどうにかして日本でもコーラやジンジャーエールと同じくらい普及してほしい。

酒を飲むとすぐ眠くなって寝てしまうが、寝る前のわずかな時間は大変気分がいい。ただし調子に乗って一息に飲むと即座に動悸と頭痛に見舞われ、到底楽しい気分になるだけの時間的猶予が残されないので、あくまで薄めた酒をちびちび飲むほかに選択肢がない。私は酒に強い人間が本当に羨ましく、自分も一度でいいから濃い酒をばかすか飲んで楽しく酔っ払ってみたいと切実に思うがこれは叶わぬ夢である。

この酒の魔力のとりわけ役に立つ時があって、私は絵を描くのが趣味だが絵というのはちょっと練習をさぼるとすぐ描けなくなり、描けない時には本当にもどかしい憤ろしい絶望的な気分になる。描けない描けないと泣きつく相手がいればまだましだが鳥しかいない。それでも結局描き続けることになるがこれは非常に苦しくアップルペンシルが20kgもある鋼鉄製に感じられる。そこで酒を飲む。酒を飲んでから絵を描くといつになく調子よくスラスラと楽しく描けるのだ。ただし集中力が続かない。それで早々に寝てしまってまた絵が下手になるのだから世話はない。

休日

良く晴れた休日の午前中、洗濯物をすっかり干してしまった後、ベッドに寝転んで鳥を腹に乗せている時間に、私は心底満ち足りた気分になり、至上の幸福を感じる。これが本当だ、このために生きているのだという感じがする。冗談や誇張ではなく、死ぬ時はその状態で死にたい。

物心ついた頃から休日を愛していた。正確には何もしなくていい休日を愛していた。小学生のときは毎週土曜日にスイミングスクールに通っていたが、ある時母が日曜日に学校でやっている競技ドッジボールのサークルに参加することを提案してきた。私は絶対にいやだった、一週間のうちに何もしなくていい日が一日も存在しなくなってしまうのだから。そう訴えても母は「子供がそんなことを言って」というような聞き流し方をして、結局私はドッジボールチームへの加入を余儀なくされ、毎週日曜日の午前中をやりたくもないボールのぶつけ合いをして過ごした。

私はスポーツが下手な子供だった。水泳だけは好きだったが、陸に上がるとてんで不出来で、私以外の家族は皆運動神経がよいのに、突然変異が起きたとしか思われなかった。家族には散々、お前も本当は出来るはずだの、本気でやってないだけだのと勝手なことを言われ(いい気なものだ、数学について同じことを言われたら怒るくせに)、言われたところで下手なものは下手であり、嫌いなものは嫌いであり、嫌いというのは向上心が芽生えないということであり、向上心のない練習ほど無駄なものはない。

子供だろうが何だろうが、嫌いなことを我慢してやっている時間は、本当は存在してはいけない。我慢は、人間の義務でも、美徳でもなく、生きる上での副産物にすぎない。たった数十年で死ぬ生き物が、わざわざ喜びのないことに労力を使って何になる。無論、生きるために嫌なことに耐えなければならない状況はごく日常的に存在するし、それをやり過ごしていくのも人生だが、それはしなくて済むならしない方がいい我慢である事実を忘れてはならず、我慢それ自体を美しい行いのように言うのは欺瞞だ。我慢と努力は違う。

しかし独立した大人になった今、私は自由だ。休日には何もしない。より正確には、やりたいことしかしない。

朝、好きな時間に起きる。7時でも10時でも14時でもいいが、最近は9時頃に起きると一番調子がいい。シャワーを浴び、洗濯をする。台所を片付け、部屋に掃除機をかけ、洗濯物を干し、フィットボクシングで汗を流し、またシャワーを浴び、適当に野菜と肉で何かを作り、食べ、食べたら横になり、窓を開けて風を入れ、買っておいた新しい本を読み、そのまま昼寝をし、起きたらゲームをし、買い物に行く気になれば買い物に行き、また適当に料理して、食べ、本を読み、シャワーを浴び、アニメか映画を見て、そう遅くならないうちに寝る。もちろん、このすべてをやらなくてもいい。これが重要だ。全部、やりたくなければやらなくてもいいことなのだ(注1)。掃除機なんぞ、数ヶ月かけなくたって死にはしない。一週間一度も食事をとらなければ死ぬだろうが、一日くらいなら問題ない。最高!

「やりたいかどうかに関わらずやらなければいけないこと」に追われる日々の中で、やりたいことだけをやる、これがいかに貴重な、贅沢な、貴族的な行いか。出かける、出かけないは問題ではない。人に会う、会わないも本質ではない。

六畳一間だろうと南国のプライベートビーチだろうと、独りだろうと100人の美姫に囲まれていようと、やりたくないことをやっていない人間は幸福である。

 

 

注1: 鳥の世話は休日に関わらずやるが、鳥はかわいいのでなんの問題にもならない。