隔絶

だいたい月に2回ほど映画館に行く。ネトフリとアマプラで24時間映像を垂れ流せる世界において、人が映画館に求めるものとは何か。迫力ある音響。家庭では望むべくもない大画面。素晴らしい。しかし私が最も求めているのは隔絶である。チケットを買ったが最後、2時間のあいだ私が要求されることはただふかふかの椅子に座ってスクリーンに相対することのみ。スマホは電源を切られ、喧騒は遮断され、生活上の雑事は一旦忘れ去られ、たとえ友達と連れ立っていても会話は発生せず、目の前に流れる映像に没入するために全てのリソースを割くことが許される、究極のシングルタスク空間、それが映画館である。家でネトフリを見ている時は、どうしてもそうはいかない。家には鳥もいるし、LINEがくれば返事をしてしまうし、外の雑音も聞こえてくる。周囲の環境に気を取られる確率が高い。ところが映画館にいる間は、LINEが来ようと、仕事相手からメールが来ようと、近所の犬が吠えようと、いっさい構う必要はない。映画館にいるというだけで、「映画を見る」以外のあらゆる行動が免除される。同様に、演奏会も好きだ。この複雑かつコストの高い、少し放置すればすぐ死んでしまう肉体を、数時間もの間美しい音楽を聴き取るためだけに使用する行いの贅沢さ。外界と隔絶された時間そのものを買っているといっていい。

今日美容院に行った。美容院というのも奇妙な場所で、一介の労働者にすぎない自分が人に髪を梳かされたり肩を揉まれたりお茶を運ばれたりする。私が美容院において求められる行動といえば、希望する髪型と髪色を表明して、後は美容師の邪魔にならないようじっとしていることだけであり、美容師は私をじっとさせているためにわざわざ雑誌まで用意してくれる。これも一つの外界と隔絶された時間であろう。しかしどうにも映画館のような安心感に欠ける。それは他人の注意が自分に向いているからだ。美容師は私の髪を切り、脱色し、染め、染まり具合を気にかけ、私の要望を叶えようとする。それが彼の仕事である。そこが映画館と違うところだ。映画館で私をもてなすのは、ドリンクを買う時は別として、映画である。映画も人がつくったものとはいえ、人そのものではない。映画はべつに私を見てはいない。

周囲から注意を向けられていない状態は安らぎの基本だ。自分を喰おうとしている天敵、縄張りを乗っ取ろうとしている同族、隙あらば雌を奪おうとしているライバル雄、生物が生き残るためには自分に向いている眼をつねに意識しなければならない。周囲に自分を脅かすものが何もない安心が保障され確保されている時間など野生下では稀だろう。映画館こそが、人類が文明によって実現させた地上の楽園、誰にも干渉されず、誰にも注意を向けられることのない至高の空間である。映画館行きたい。