鳥島

その島の大地は柔らかな羽毛からなり、体温を持つので冬季でもおおむね温暖である。島は遠くから見ると海にぷかぷかと浮かぶ鳥の姿をしており、なだらかな背中の起伏の先に平べったい頭部があり大きな目があり嘴がある。島は飛びもすれば羽繕いもおこなう。いかな偉丈夫も島が巨大な嘴を向ければ赤子同然に海へと弾き落とされる。この島に関する文献記録は8世紀にまで遡ることができるが、歴史上島に定住者がいないのはこのためである。

定住者はいないが、島から採れる羽毛(これを島羽という)は部位によって大きさも形も硬さも様々であり、複雑な構造色を宿し、美しい飾り物としてだけでなく、宝玉のようでありながら宝玉よりも柔軟な素材として種々の加工品の原料にもなり、たいへん珍重されるから、定期的に島へやって来て羽毛を回収していく拾羽(しゅう)と呼ばれる専門職が存在する。拾羽の子供は物心つく前から島での振る舞いを徹底的に教え込まれ、海に落ちた島羽を回収する仕事から始めて16の歳になると入島が許される。

拾羽はたいてい尾から入島して上尾筒を登攀し、背中、肩、頭部を歩き回って島羽を集める。このとき必ず自然に抜けたものだけを拾うのは、きわめて価値の高い初列風切を得ようとしてまだ島の血の通っている羽を切り落とし出血させ、嘴で突き殺された愚かな男の伝承があるからだ。彼らは決して島の機嫌を損ねないように、皆音楽をよくし、声の美しい者は歌い、そうでない者は楽器を奏でる。巨木の幹のような島の羽鞘を鑿と金槌で砕いてほぐし、島に根付いた雑草を抜き取り、時には鼻孔に入って海鳥の糞を取り除いてやる。また、拾羽の成人は男女を問わず皆鍛え抜かれた肉体を持ち敏捷であり、島の突然の挙動の際にも沈着に羽毛に掴まってぶら下がることができる。

島が飛ぶのは早朝であり、昼はめったに飛ぶことがない。そのため拾羽は昼前に島に入って夕には出るのが習わしだが、過去に数回、昼間に島が飛び立ったことがあるという。このような逸話がある。羽坊(うぼう)という若者が島で昼飯を食っていると、おもむろに島が伸びを始めた。羽坊は賢明にも命綱をしっかりと島の羽軸に縛り付けて昼飯を食っていたので、海に転がり落ちずに済んだ。咄嗟に背中の羽の下に潜り込んでしがみつくと、島は翼を広げて飛び立った。どれだけの時間そうしていたか、やがて揺れがおさまり恐る恐る羽から這い出てみると、そこはまったくの異国の地だった。当時その国では島羽は少数しか流通しておらず、非常に喜ばれたから、羽坊は一夜にして大金持ちとなり、数日経って島の背に自分の身体と金銀財宝を括り付けて帰ってきた。近年、現在大英博物館に展示されている「ヴィジャヤナガルの三列風切」はこのとき羽坊から買い取られたものだという説が提唱されたが、これは史料の信憑性にとぼしく未だ憶測の域を出ない。

拾羽が持ち帰った島羽を買い取って加工するのが羽工(うこう)と呼ばれる職業である。島羽は無加工でも永く美しさを保つが、より色艶を出すために特殊な液に浸して乾燥させるのが一般的であり、この手法は平安時代に確立している。そのほかにも島羽を核にして結晶を育て、羽の形をした鉱石をつくり出す羽晶、島羽を重ね合わせてテント様の東屋とした小羽宮、島羽のしなやかな繊維一本一本を組み合わせて複雑に輝く一枚の板に仕立てる織羽など、貴人たちの趣向と羽工の工夫から数々の技術が生まれた。豊臣秀吉名工・雨覆羽明(あまおおいのうみょう)に作らせた羽屏風などは織羽の名品とされ、希少な尾羽を含む様々な部位の島羽を巧みに織り合わせ、色の濃淡で山河を表現する超絶技巧が施されている。

この雨覆の一族は現在に至るまで羽工の名家の地位を守り続けているが、先代の当主・羽志気(うしき)は文芸にもすぐれ、興味深い手記を残している。羽志気は東京藝大在学中の20歳の頃、見聞を広めるためアメリカから中南米を単独、数ヶ月の間放浪しており、あるときペルーを訪れた。ペルー高地の森林でバードウォッチングに勤しんでいると、羽志気の双眼鏡に、群れをなして飛ぶ新緑色の鮮やかな小型の鳥の姿が映った。羽志気は驚愕した。その鳥の姿形は島にあまりにも酷似していたのだった。英語のわかる現地の人間に鳥の特徴を伝えるとそれはlineolated parakeetだとの答えが返ってきた。和名をサザナミインコという。

羽志気は帰国してのち、羽工として活躍するかたわらサザナミインコと島の関係について独自に研究を進めた。彼個人のみならず、雨覆の一族にとって、いや日本人にとって島の存在は海や空の存在と同等に自然だった、その観念がサザナミインコに齧られる果実のごとくやすやすと崩されていった。なぜ1300年以上の昔から中南米の小鳥が日本の海に浮かんでいるのか。何より、なぜあれほど巨大なのか。真相はペルーの森林のように深い謎の中に隠れて決して姿を現すことはなかった。

やがて日本でもサザナミインコが飼鳥として普及しはじめ、鳴き声が比較的静かで性格も穏和なことからじわじわと人気を高めた。羽志気も数羽を入手し、拾羽に依頼して島にも連れて行ったが、島とサザナミインコがコミュニケーションを取る様子はなかったという。羽志気は徐々にサザナミインコ飼育に傾倒し、隠居後の晩年はほとんどサザナミインコとしか会話をしなかった、始終サザナミインコを手に乗せて何事か話しかけていた、と長女であり現当主の羽枝緒(うしお)は語っている。羽志気は遺言書に「島は鳥、鳥は島」と書き遺し、数年前にこの世を去った。